階段と手すり

オカルト寄りの砂場にも行きません。

嵐の日に聞こえる声の話

嵐の日に聞こえる声の話です。

体験談です。

 

 

これは人から聞いた話である。

趣味でオカルト関連のことが好きで、周囲にもそういった人で集まっていたため、しばしば不可解な体験は聞いていた。

そのうちの一つが、この話だ。

 

 

大学生の頃、下宿をして一人暮らしを始めた。

生活に慣れ始めて、夏休みが終わって秋から授業が始まったときに、大きな台風が近づいていた。台風が近づくにつれて、窓が割れることへの防止策や食料品の買い置きで周囲が慌ただしいくらい、規模が大きな台風だったのが印象に残っている。

台風が最接近すると予報が出た日は大学やバイトも休みになった。危ないときは家でおとなしくしていようと、台風が近づくまで家で準備をし、夜には台風が通過していてひどい風雨になって予報通りに外に出るのが危険だと感じた。

外の道路もほとんど車が通らず、雨と風の音がひどかったのを覚えている。

とにかく風雨がひどく外が気になって眠れなくなっていたものの、寝ないわけにもいかないと日付が変わった頃に眠ろうと電気を消したときだった。

「すみません…すみません…」

人の声が聞こえてきた。アパートの中からだけれど、私のいる部屋ではない。部屋の外、アパートの共用部である廊下あたりから聞こえると、宅急便の人や友人が来たときに外から部屋への呼びかける声を思い出す。

ときどき、工事や管理会社の人たちが来て廊下で話すとこういう感じだったと思いながら、耳をすませた。何か用事がある人がいるのだろうと思ったのだ。

「すみません…すみませーん…」

声は続いている。足音は聞こえない。どこが目的の部屋が分からずに、困って助けを求めているのかと思って携帯電話を手に取った。外の道路が冠水して車が動かなくなる、ガラスが割れたり、家の瓦などが飛んでしまったりして怪我をすると、ニュースで聞いたことがあって、助けを求めている人が偶然来たのかもしれないと思ったのだ。

部屋の明かりをつけて、玄関の近くに行った。そのとき、もしかしてすぐ扉を開けるのは危ないかもしれないと気がついた。嵐や災害があったときは火事場泥棒や因縁をつけてくる人がいるかもしれないともニュースでやっていたことを思い出した。

「すみませーん、すみませぇん」

控えめだけれど、高めな女性の声が確かに聞こえている。やはり、玄関の扉の向こう、アパートの共用部の廊下からだ。すみませんと言っているのは中年くらいの女性だろうか。不安げな声が、雨と風の音にまぎれてかすかにだが確かに聞こえている。

もし外に出たとき、火事場泥棒などの犯罪を企む人だったら襲われるかもしれない…。そういった懸念で扉は開けなかった。

よくよく考えれば、日付が変わった真夜中にすみません、と繰り返すだけなのはおかしいのではないのか。本当に助けを求めるなら、車が壊れたとか、怪我をしたとか…混乱していてももう少し具体的に言うのではないだろうか。もっと焦った声で。しかし、声の調子は至って平坦で、同じ言葉をひたすら繰り返しているだけのようだ。

「すみませーん…すみま…」

扉の施錠を確認し、部屋に戻ってしばらく立っていた。携帯電話はいつでも誰かにかけられるようにした状態で。

そのうち、声は小さくなって嵐の音だけになっていた。足音もせず、アパートの他の誰かが出た音もしなかった。

嵐に乗じて物騒なこともあるものだと、私はベッドに戻って横になって眠った。

次の日は午前中まで台風の勢力が強く、午後から被害がなかったか、停電していないかの確認などを行った。大きな被害はなかったが、結局夜に聞こえた声の正体はわからずじまいだった。

 

それから、時間が経ち引っ越しをして別の場所に住み始めた。治安もよく、周囲も静かでいい場所だと評判の地域だ。

慣れない環境でしばらくせわしなく過ごしながらも、半年あたりが過ぎた頃。大きな台風が接近し勢力を落とさないままと予報が出た。やはり外出は危険だと、学校は休校、交通機関は運休といった対応がされて、さすがに家にいることになった。

台風が接近する前に、防災のための物と食料品を買って家にいる準備をした日だった。夜から朝にかけて最接近するということで、夕方から雨脚と風の勢いが増してきた。外に出るのは危ないと外出は控えて昼からはずっと家にいた。そして、夜になっても体は疲れておらず眠くないが仕方がない、もう寝ようかと、適当な時間に電気も消してベッドで横になっていた。

そうしてある程度時間が経ち、日付が変わった時間帯だった。

「こんにちは、こんにちは…」

誰かの声が聞こえる。

部屋の外の、アパートの共有部分からだ。

こんな時間に誰かが来るなどおかしいとすぐに気がついた。真夜中にこんにちはという挨拶も妙だけれど、こんな非常識な時間に用もなく管理会社の人が来ることや、来客などあるはずがない。そもそも、誰かに会いに来たとすれば、目的の部屋に向かう足音が聞こえるはずだ。だが、足音はまったく聞こえなかった。

「こんにちはー、こんにちはぁー」

高めの女性の声。雨と風にまぎれてしまいそうな、平坦で小さな声だ。

一応起き上がって、玄関の施錠を確認して部屋に立ったまま、携帯電話を用意していた。やはり誰かが困って助けを求めているか、または困っている人を装った火事場泥棒かと思ったからだ。

「こんにちはー、…こんにちはー…」

そして、声はいつの間にか聞こえなくなっていた。アパートを出ていく足音などは聞こえなかった。

夜も遅いせいでもう眠たいと、そのままベッドに横になって眠ってしまった。

次の日は、午前中には段々と雨の勢いが弱まり、風が多少強いものの危険は減ったと外に出てもいいかと思えた。用があって少し出かけたが、外には特に何もなかった。普段通りだった。

こうした体験があっても他に何か変わったことはまったくないが、住む場所を変えても台風の日の真夜中に、目的のよく分からない女性の声を聞いたのは不思議な経験だ。

思い出してみれば、聞こえた声がどちらもよく似ており、言うこともある言葉の繰り返しだけで妙だ。ただ、どちらも扉を開けないほうがいい相手だったらしいとぼんやりと思った。緊急事態でも、事前に何も言わずにひたすら同じことを繰り返す相手は、冷静に考えれば怪しいからだ。

 

これから、過去と同じように嵐が来た真夜中にまた誰かの声が聞こえるのではないかと、今も少しだけ気にしている。

生きている人の悪意のない行動であっても少し常識から外れている気もして怖い。もしも火事場泥棒だとすればなおさら怖い。人でも、人ならざるものでも、こんな真夜中に訪れてある言葉だけを繰り返すなど怪しい以外のなにものでもないが…

 

 

そうした経験をした後で、ツイッターで「ただいまという言葉で喜ぶ人を見て、何かが真似て誰もいない場所でただいまと言っていたら怖い」というのを見て、ふと気になったことがある。

あの女性の声は、「すみません」から「こんにちは」に変わっていた。もしかすると、あの声の主は「すみません」では誰かを誘い出せないと判断し、誰かを呼ぶ言葉を「こんにちは」に変えたのだろうか、と。